コンポート 学食の定番の飲み物です
学食の定番の飲み物はコンポートと呼ばれる、赤くて薄いジュースです。
スープとコンポートは定食メニューに必ずついてきます。
このきれいな色をした栄養たっぷりのコンポートは、
イチゴや木の実を砂糖で煮た薄い薄いジュースのようなものです。
本当は食後のコーヒーなんかがセットでついてくれば良いのですが、学食では
コーヒーを飲んでいる人姿はありません。
また、メニューにもそれらしきものは載っていませんでした。
多分、学生寮の中の学食なので、コーヒーなんかは自室でという感覚なのかもしれません。
これが基本のセットです。
コンポートとスープそれに一皿。
スープは日替わりなので飽きません。
ジャガイモか、お米か(たまにそばの実)は注文時に選べます。
サラダも3種あって取り合わせは自由です。
これで最初の頃は12ズォティ=360円くらい、後期には少し値上がりして400円くらいなので、コストパフォーマンスは抜群です。
できればパンが欲しいところですが、ジャガイモがパンのかわりです。
珈琲が無いように、パンも一切学食にはおいていません。
でんぷん質は、ジャガイモか、そばの実、お米から摂取するようです。
さっぱりとしたパンやお米がないので、ちょっと味が濃いのが難点でしょうか。
ただ、このメニューの表を読み込んで、会計で注文するのですが、全くポーランド語が読めないので、どうも英語読みでは通じないようでした。
kotletは良いのですがそれに続くソースや付け合わせの種類で分かれているので、kotoletだけではわからないと言われてしまいます。
あやふやな、自信のない記憶では、メニューボードの前で覚えたつもりでも会計の順番待ちをしているうちに忘れてしまいます。
ポーランド語は英語と違い、発音はスペルに準拠しているようなので、基本の読み方くらいは勉強してくればよかったと少し後悔しました。
下は、カマンベールチーズを丸々一つ揚げたものです。
チーズが美味しく安いので、これも絶品でした。
カマンベールチーズは食べますが、せいぜいビールやワインのつまみくらいで、こんな風に丸々一つを挙げたものは初めてで、なかなか味も絶品でした。
これこそ、ビールでもあれば最高なのですが、いかんせん「学食」なので。
2つの世界大戦の間で ポーランドの 独立記念日(11月11日)
18世紀にポーランドは「ロシア」「プロイセン」「オーストリア」の強大国に領土を奪われていきました。1772年、1793年、1795年の3度にわたる分割でポーランド王国は消滅し、世界地図の上から消えてしまいました。
その後
第一次世界大戦のさなかの1917年、ロシアでは革命が起き、またドイツとオーストリアが第一次世界大戦に敗れたため、これらの国の支配からのがれたポーランドは一九一八年に念願の独立を果たしました。
その時の国家主席が「ピウスツキ」
彼と弟は独立前にロシアに捉えられシベリアに送られたのですが、弟はサハリンを経て北海道に上陸。
アイヌ人と結婚して、今、日本には彼の孫が住んでいます。
そんなことから北海道に縁があり札幌には「北海道ポーランド文化協会」も設立されています。
札幌は、日本の中で最も文化的にポーランドにつながりの深い街と言われています。
11月11日
1918年のこの日、ポーランド共和国が独立しました。
社会主義時代には記念日としては廃止されていた(ロシアからの独立のため)が、民主化後復活した。2018年はちょうどポーランド独立の100周年にあたります。
通常の年であれば、大学は休校ではないとのことでしたが、2018年11月11日は大学は休校。
校舎に鍵が掛かっていて、事務局の入っているビルも誰もいませんでした。
結局この日は教室に入れないので、日本語教室は休講としました。
ジェロナグラのPOLPORAというブランドの時計です。
独立100年を記念して発売されました。
1918年の年号がデザインになっていて、
ポーランド国旗の赤と白もさりげなくデザイン化されています。
国旗は上が白、下が赤の紅白旗。
13世紀ごろから白いワシと赤い盾がポーランド王国のシンボルでしたが、1918年の独立の時にその白と赤がポーランドの国旗に採用されました。
国歌
ポーランドの国歌は「ドンブロフスキのマズルカ」この歌は大事ぽーらんどぶんかつによって共和国がすべての領土を失った時ドンブロフスキ将軍の率いる亡命ポーランド人部隊の軍歌として書かれたものが第一次世界大戦後にポーランド国歌として定着したものです。
mazurkaはポロネーズと並ぶポーランドの代表的民族舞踊ですが、ポロネーズがテンポがゆったりとして優雅なのに対しマズルカは旋回の激しい舞曲です。
このCDもポーランドの独立100周年を記念して発売されたものです。
ジャウキ(家庭菜園)ポーランド
「ジャウキ」はポーランドの家庭菜園です。
ドイツの「der kleingarten」 「Schrebergarten」と同じ市民向けの賃貸農園です。
日本の賃貸農園は一般的に数年単位の賃貸のようですが、ポーランドでは果樹が植えられているところからみて、長期賃貸のようです。
広さは100坪くらいでしょうか。
フェンスでがっちりと4周を囲まれ出入り口には鍵が掛かっていました。
畑のすみにある小屋には農作道具なんかがしまってあるのでしょう。
少し大きめの小屋は小さなコテージかもしれません。
まだ冬なので何も植えられていませんが、春になれば、ここに野菜や花などを植えて、果樹にも実がなることでしょう。
家庭で食べる分くらいならこの「ジャウキ」の収穫で間に合いそうです。
日本でも農家の高齢化のすすむ時代です。
東京近郊などでも、農家の畑をきちんと区分けし都会のマンションや一戸建てに住んでいて普段土いじりをすることのない市民に、貸し出せばよいのにと思います。
個人で賃貸契約を結んで管理していくのは大変なので、ドイツのようにもっと法の整備をし、きちんとした団体を設立したうえで運営していけばもっと底辺が拡大するでしょう。
都会で働く人のストレス解消法としてこんな「ジャウキ」は最適です。
まあ、100坪もあると、高温多湿の日本では雑草の管理に追われ逆にストレスになりそうですが。
ジャガイモの形をした国 ポーランド
「ポーランド」という国名は英語読みです。
ポーランド語では「ポルスカ」。
これは、「畠」や「森の中の草地」を意味する言葉からきています。
国土の90%以上が平野のポーランドは文字通り森と平原の国です。
森に囲まれた麦畑
牧草地
鉄道で国内を旅行しているとどこまで行っても同じような風景が続きます。
車窓から見えるのは、広い農地、なだらかな丘、森林のいずれかで、ときどき町や村の建物が目に入ってきます。
その建物の中には、教会の尖塔がひときわ高くそびえています。
ポーランドは東西・南北にそれぞれ600㎞~700㎞。
正方形近い形で、見方によってはジャガイモのようです。
面積は31万平方キロメートル。
日本が378千平方キロメートルなので日本の面積の約80%くらいです。
また、人口は3797万人(2019年)、日本1億2615万人。
日本の約30%くらい。
これは、ちょうど日本の65歳以上の高齢者の人口と同じくらいです。
島国で平野部の少ない日本に比べると、広大な平原に日本の30%くらいの人口の人が住んでいるので、街と街の間隔も緩やかで、とても牧歌的な雰囲気の漂う国です。
オルガ・トカルチュク ポーランドのノーベル文学賞受賞作家(2018年)ジェロナ・グラ近郊スレフフの出身
オルガ・トカルチュク
オルガ・トカルチュクは1962年にポーランドの西部、ドイツ国境にほど近いルブシュ県スレフフに生まれました。
主な作品は
「昼の家、夜の家」(2010)
「逃亡派」(2014) ポーランドで最も権威のある「ニケ賞」
マン・ブッカー国際賞(ポーランド小説として初めて)
「プラヴィエクとそのほかの時代」(2019)
「迷子の魂」(2020)
以上4作品が日本語訳にて刊行されています。
また、2014年に出版された大作「ヤクプの書物」はユダヤ人宗教指導者ヤクプ・フランクとその時代を扱い、ポーランドが歴史上、抑圧の犠牲者であっただけではなく、時に他の民族を抑圧してきたことを公然と指摘している。
この本はまだ未邦訳ですが、日本語訳の刊行が期待されます。
スレフフ(sulechów)の街
ルブシュ県ジェロナ・グラ郡スレフフ。
ジェロナ・グラの北方16㎞くらいに位置する人口1.7万人ほどの小さな街です。
ジェロナ・グラから北に向かい途中のザバダ(zawada)までは市内バスがあるのですが、ザバダでバス路線は直角に東に向きを変えヤニ→プシトク→ミルスコとオーデル川の渡船場に向かってしまいます。
たぶん、ジェロナ・グラからは郊外バスが通っているのでしょう。
ザバダからまっすぐに北上するとオドラ川に架かる橋があり、蘇の橋を渡ればスレフフの街です。
ポーランドの街は小さくてもなかなかに見どころのある街が多く目的もなく散策していても楽しいのですが、この街もナポレオン戦争後の1815年からプロイセン王国のブランデンブルグ州に属していたので、ドイツの香りのする街だと思います。
そんな街でノーベル文学賞作家のオルガ・トカルチュクは生まれたのです。
その他の有名人には、ゲーテの「親和力」に登場するオティーリエのモデルとなった女性もいるそうです。
たった40分のバス旅行ならいくらでも行けたのに、当時は全く知りませんでした。
ちょうど、ジェロナ・グラに滞在していた2019年にノーベル賞をもらったのでタイミングが悪かったとも言えるでしょう。
ジェロナ・グラを訪問することがあればぜひ足を延ばしてみてください。
郊外バスの行き先表示板ですがこの中には残念ながら、スレフフ行きのバスは見つかりません
コロナワクチン接種 ポーランドの状況(2021.05.09)
ポーランドのジェロナグラの高校生から聞いた話です。
コロナワクチンの接種は5月に父親と母親は2回完了。
自分は(18歳)1回終えたところだそうです。
ポルトガルに住んでいるおじいさん(74歳)もすでに2回完了。
(ポーランドの接種率8.71 ポルトガルの接種率9.16 日本の接種率0.88)
明日から、高校の卒業の最後の試験ですが、終わったら大学入学までのバカンスの期間には2回ポルトガルに遊びに行くんだと張り切っています。
ポーランドは昨年後半から感染者が急増し、相当の感染者も出て、死者もかなりの数でした。
つい最近のイースターの頃も、いとこの誕生日に親戚一同が集まってお祝いするんだけど、おばあさんはCOVID19の感染が怖いので行かないと言っていました。
でも、ワクチン接種をしたことで雰囲気がガラッと変わりました。
ワクチンの予約もAPPで時間、場所を指定しさらに「ワクチンメーカー」も簡単に指定できるようです。
ファイザー・アストラゼネカ・モデルナ・J&Jとある中で彼女の家族はファイザーを選んだとのこと。
お母さんだけが2回目の接種で39度近くまで熱が上がって2,3日大変だったとも言っていました。
こんなポーランドの状態と今、自分の置かれている札幌の状態。
比べてみて札幌(北海道)の対応の稚拙さは明らかです。
5月9日、「まん延防止」が何故今頃になってというスローペースで発令された中、ブラックジョークのように北海道および札幌で感染者数が爆発的な増大を示しました。
何と北海道で506人、札幌で327人。
どちらも過去最多最悪の感染者数です。
西村大臣が、北海道に緊急事態宣言を出さない理由を北海道は広いからと薄ら笑いを浮かべながら説明していましたが、「高速道路は車よりクマの方が多い」とかつて言われた北海道の札幌市以外の地域でも感染者が179人も出ています。
それも各振興局に満遍なく。
明らかに感染は全北海道に拡大しました。
それでも北海道の鈴木知事は「新しい旅のスタイル」という地域GO TOを継続する為頑として「緊急事態宣言」を出すつもりはありません。
ワクチン接種については、札幌市では、現在接種券を印刷しているとの遅れようです。
さらに秋元市長の話では接種は「75歳以上」の人が6月末までに。
それ以降にようやく65歳以上の人に順番が回ってくるようです。
政府は7月末までに65歳以上の国民全員にワクチン接種を2回終えると公言しているので68歳の私は、7月月初めに第1回、7月末に第2回くらいのペースになるのでしょう。
また、今接種予約を受け付けようとしている全国各地の自治体では、「電話がつながらない」「インターネットがつながらない」などのトラブルが頻繁に発生しています。
接種該当人数の数倍、十数倍のアクセスが集中する状態は、明らかに政府に対する不信感の表れでしょう。
家族総出で電話やパソコンに何時間もしがみ付いてアクセスしなければ予約が取れないなんて先進国とは言えません。
また、これはITに対する日本の技術の遅れの表れかもしれません。
このITに対する脆弱さも、プログラミング教育でも明らかに世界に後れを取っている日本のITレベルの低さを露呈させたものでしょう。
ワクチンの事でポーランドと情報交換することでいろいろな問題を認識させられました。
福田会 なぜ、ポーランドは親日国なのか? 一つの史実
社会福祉法人 福田会は、ポーランドと歴史的なつながりを持っています。
第1次世界大戦後(1920年)シベリアで孤児となっていたポーランドの子供たち375名が日本赤十字社の援助のもと、敦賀港経由で来日。
東京の福田会(ふくでんかい)に逗留しました。
そして、健康を回復したのち、無事ポーランドへと帰還しました。
この史実はポーランドでは良く知られていましたが、日本では長い歴史の中に埋もれてしまっていました。
2009年、当時の駐日ポーランド大使がたまたま福田会の前を通りかかり、それをきっかけにポーランドとの交流が始まったそうです。
2020年、100年を記念しポーランド・フェスティバル2020
の「シベリア孤児来日100周年記念企画」で番組を視聴したところ、
福田会から記念ピンバッジが送られてきました。
このピンバッジはポーランドで発行された「福田会ー希望の家」と記載された記念切手のデザインを使用しています。
100rocznica prezybycia polskich dzieci syberyjskich do Jaoinii
100周年 ポーランドのシベリアの子供たちの日本への到着
Fukudenkai-Dom Nadziei
福田会ー希望の家
真ん中に日の丸と鶴があしらってあります。
また、孤児たちはシベリアから「哈爾濱(ハルピン)」経由でウラジオストックから敦賀港に着いたそうです。
哈爾濱はロシア人の作った街と言われていますが、そのころポーランドという国はロシアに併合され存在しませんでした。
独立は1918年の事。
もしかしたら、哈爾濱を作ったのはポーランド系ロシア人だったのかもしれません。
哈爾濱には今でも「ユダヤ人」の痕跡が多数残っています。
ユダヤ人の建築した音楽ホール
今でも哈爾濱の音楽学校を中心にコンサートが開かれています。
ユダヤ人の集会場
当時の写真がいろいろと掲示されています
手すりには「ユダヤの星」