ジェロナグラの名品 オートマティックの時計 とてもいい時計です
旧市街の中心に老舗の時計屋があります。
3階建ての建物ですが、店舗は1階のみ。
どこの街にでもありそうな、でも多分街で一番の時計屋です。
ぶらっと中に入ってみました。みると真ん中のショーウインドに、ポーランド製らしい時計がありました。
「これはポーランド製ですか」と聞いたら「Tak」と言って、指で上をさします。
この店の上の工房で作っているとのこと。
ジェロナグラ製の自動巻きです。
この街に住んだ記念にぜひ欲しい。
いろいろ話を聞くと、一年間に50か100しか作っていないそうです。
まさに、限定版。ジェロナグラでの生活の記念にぴったりです。
すっかり買う気で腕に巻いたり質問したり(税金もしっかり聞きました)しましたが、ベルトもとてもしっかり作ってあります。留め具もGUCHと同じ方式です。
ムーブメントもスイスメイド。メーカーはハミルトンの自動巻きと同じです。
値段も手ごろのようです。
いったん立派なパンフレットをもらって「来週必ず買いに来ます」といって店をでました。
家に帰ってじっとパンフを見ていたら、そういえば店員さん「?タウゼント」とか言っていたのをふと思い出しました。
もう一度パンフを見直したら、なんと値段の桁を間違えていました。15万円くらいします。
千の位のあとにスペースが・・・・。千の位を形式ナンバーだと思っていました。
大失敗です。
欲しかった時計は Aqua Duo4 990.oo ZL と表示されていました。4の数字を形式番号と勘違い。でもこのスペースは何なんでしょう?普通ドットかカンマじゃないんでしょうか。
大見えを切って来週必ず来ます、などと言ってしまったので、
そのあと店の前は迂回して歩いています。
でも、ほんとにいい時計でした。
時計の好きな人に絶対おすすめです。すべてシリアルナンバーが入っています。
2019年の新製品は9月ごろ発売だそうです。
この時計が一番気に入りました。写真では色がうまく出ていませんが、金属部分はピンクゴールド。とても、素敵な色合いです。それに、文字盤の濃いブルーがマッチしていてとても洒落ています。ベルトも濃いブルー。50個限定です。
帰国 ジェロナグラからワルシャワ
ジェロナグラからワルシャワ
ジェロナグラからオポ-ル
最後のポーランド鉄道旅行です。ジェロナグラからワルシャワは①北に向かいポズナンからベルリン-ワルシャワ線に乗り換える方法と②南を回りヴロツワフを通りワルシャワに向かう2つの方法があります。
今回は、時間はかかるのですが出発と到着の時間を考えヴロツワフを通る南周りを選びました。
ヴロツワフ付近(車窓から)
食堂車
ヴロツワフ駅到着間際
まずは、Zierona GoraからWroclawを経由しOpolで乗り換えです。
8:08発11:24着 236キロ 86.4ZLです。
オポ-ルからワルシャワ
OpoleからWarszawaは
12:02発15:49着 323キロ 44.10zl。
オポールの駅舎と駅構内
距離と料金がちぐはぐなのは、車両の形態が違うからでしょう。でも、どのみち安いのであまり気になりません。60歳以上の30%シニア割引きです。
Warszawaに近づくと農園の雰囲気が南部とは少し違います。
ひとつひとつの農地の面積が小さいようです。街も南部のほうがまとまりがあるように感じます。
ワルシャワ行きの列車(2等車)ポーランドの長距離列車は全席指定です
Warszawa Centralna の1つまえから、車内の到着駅を表示する電光掲示板が怪しい。
次は到着駅のWarszawa Centralna という表示ですが、駅の付近の景色が違います。
不安になったら聞くのが一番です。隣の青年に聞いたところやはりCentralnaは次の次とのことでした。
無事、Warszawaの駅に到着。
宿泊は3回目となる同じホテルです。
Warszawa Centralna 4 Peron(platform)
カタール・ドーハから成田 シルクロードの上空を通り12時間
ポーランドのワルシャワ・ショパン空港からカタールのハマド国際空港まで約5時間。
ようやく、ドーハに着きました。
機内はヨーロッパ人ばかり。席は3人掛けの通路側。窓側と真ん中にはロシア人らしきカップル。途中機内食が出るのですが、男性のほうは食事をせず、もっぱら飲むだけ。ビール、ワインをどんどん注文します。でも、全く酔った様子はありません。さすが、ロシア人。
乗り換えの成田行きの飛行機はドーハのハマド国際空港を午前2時に出発します。
空港の出発ラウンジは帰国する日本人でいっぱいです。
ヨーロッパ、アフリカ、中東各地からこのドーハを経由して帰国します。
私の隣はトルコ旅行を終えて帰国するご夫婦です。
飛び立つとすぐ眼下に海を埋め立てたダイヤモンドのネックレスのように煌めく人工島が散らばります。
さすが、産油国。
資金は潤沢です。
飛行機はボーイング777ー800。
普段は、通路側に座るのですが、今回は後部の窓際に座りました。
理由は、飛行機の航路です。ドーハからペルシャ湾を越えイラン上空。そこから、東に向かいます。ちょうどシルクロードの上を飛ぶわけです。
中学、高校時代、私の部屋の壁にはシルクロードを宇宙からとった写真地図が貼ってありました。そのルートを飛行機から見ることができる。
この景色を見逃す手はありません。
イラン上空を通過しトルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスなどの中東諸国の上空を通り中国へ向かいます。
マリ、サマルカンド、タシケント、フェルガナ、ハミ、昔きいたことのある懐かしい地名です。
タクラマカン砂漠が広がります。
南に崑崙山脈
北に天山山脈
遠く南方にはにはK2のあるカラコルム山脈も見えるはずです。
ハルピンの黒竜江大学でお世話になった宋さんの両親が住むという
内蒙古自治区、包頭市を越え北京手前から少し南下し
また、進路を東に。
包頭市の手前から雲海が広がり残念ながら景色はここまで。
山東半島から黄海を越え朝鮮半島のインチョン上空へ。黄海上空では一瞬雲が切れ、山東半島の付近の島々を見ることができました。
朝鮮半島半島を横切り
日本海へ
福井近辺から本州上空。
銚子沖を旋回し成田空港へ降り立ちました。
所要時間11時間40分の長旅です。
日本人の客室乗務員の話では、最近カタールは周辺産油国との関係が悪化し、サウジアラビアやペルシャ湾岸諸国の上空を飛べず、迂回しなければならないこともあり、今までより1時間ほど余計にかかってしまうとのことでした。
今回のフライトは長い旅でしたが、時間つぶしに映画を見ることもなく眼下の風景を十二分に堪能できました。
魔女払いの鈴 ジェロナグラ大学人文学部長からいただいた記念品です
帰国の前日、ジェロナグラ大学のキャンパスBのトップである人文学部長にお会いしました。
学部長は歴史学の専門家のようです。
哈爾濱の黒竜江大学にいたことがあると話すと、即座に「満州ですか」と返ってきました。日本人でもなかなか、哈爾濱の地名がピンとくる人は少ないかなと思います。
私は、満州で知っていたのは瀋陽、長春、大連くらいで、哈爾濱という地名を意識したのは、新潟の三越で「金の宝物展」を見た時が初めてでした。金の国の首都が今のハルピンの近くの上京にあったようです。
「森村誠一の悪魔の飽食」も発売当初に読んだのですが、哈爾濱の地名には全く記憶がありませんでした。
そんな、歴史学の専門家である学部長からいただいた記念品は、「火あぶりにされている魔女」の陶器の鈴です。
学部長曰く、この鈴は魔除けの鈴、この鈴をならすと魔女が怖がって寄ってこない。
魔力の強い魔女を退治し火あぶりにした。この力を誇示するためにこの鈴を鳴らすと、普通の魔女は恐れおののき退散するという理屈でしょうか。
私の感覚と少し違います。そんなことをしたら、他の魔女が復讐のため大挙をなして襲ってくるように思うのですが。
そんな風に思う人もいるのではないでしょうか?
藤原道長や平将門を祭るのは、霊力があるといわれたその人たちの祟りを恐れてのことです。力の強い者を運よく倒せても、その者の魂が安らぐように奉り、祭り、それによって安寧を願う。それが日本人の気持ちだとすると、西洋人とは大きく違います。
それを、鈴をつけて鳴らすのは???
織田信長の発想でしょうか?
織田信長が、日本人離れした思想の持主だというのもわかる気がします。
西洋的合理主義なのでしょう。
戦後、GHQが天皇の戦争責任を追及しなかったのも、日本人のこんな気質を考慮してかもしれません。
天皇の戦争責任を追及したら、日本人は恨みを募らせ、連合軍に対し徹底抗戦したかもしれません。
第二世界大戦のあと、ソ連がしたこと。
二つの国境線
Ⅰ カーゾン線
これは第一次世界大戦に定められたポーランドとソ連の国境です。
しかし、この線は「第3次ポーランド分割」1795年・時のプロイセンとロシアの国境。ポーランドが侵略された結果のロシアとの国境です。
当然ポーランドはこのカーゾン線は3回にわたるプロイセンとロシアよって侵略された結果の強国同士の国境であると主張しました。
そして本来はもっと東側が本来の国境であるとして、第一次大戦後ロシアと戦い勝利し1921年200㌔東まで領土を回復しそこにロシア国境を設定しました。
つまり、ポーランドは1921年以降は第2次大戦までは今より200㌔東に広がる国であったのです。
ある受講生のおじいさんは、その地に住んでいたそうです。
しかし戦後、戦勝国ソ連はこのカーゾン線まで領土を拡大しソ連の地と主張。
その結果、彼のおじいさんはその地を追われ、逆にドイツから奪ったこのジェロナグラに住み着いたそうです。
この地域に住む住民のほとんどは彼のおじいさんと同様に、ソ連に奪われたポーランドの東部地域に住んでいた人です。これはソ連とポーランドの傀儡政権が行ったということです。
簡単に民族を強制移住させる。ソ連の政策としてよく使う手です。
ハルピンにいたとき、隣の席に座った韓国人らしき風貌の学生が後ろのロシア人の女子学生とロシア語で話していました。あまりロシア語がうまいので褒めたら「私はロシア人です」「え、ロシア人なの?」と聞いたら「満州族です」
でも故郷はモンゴルのはるか西の地域でした。
アジアの東にいたはずの満州族、清を作った満州族は、はるか西の地域にソ連政府によって移住させられていたのです。
ポーランドでも、東にいた人間が西に強制移住させられています。
その地のひとつが、ここジェロナグラです。
ドイツ人を追い払った場所に国の反対側にいた人間をはめこむ。
そんなふうにして、今があるのです。
Ⅱ オーデル・ナイセ線
ジェロナグラのあるルブシュ県は第2次大戦がおわるまで、ドイツ領でした。
ジェロナグラから少し西にいくと、どんどんドイツらしい町並みになります。なんとなく、屋根の勾配が急、ドイツ風の木組みの壁が。ジャガンやジャリ、イウォバもプロイセン公国の領主の街です。
イウォバの駅でおばあさんと孫の二人連れに出会いました。
駅に行ったのですが、駅には駅員が一人もいない。
駅舎に鍵がかかっています。
そこに、車が。
ふたりが降りてきました。
そこで地元の人だと思い話しかけたら、ドイツ人とのこと。ザクセン州のローバからきたとのこと。
おばあさんが10歳まで、この街に住んでいて・・・。
地図をボンネットに広げ私と彼が話している間、おばあさんはひとりで駅舎の周りをうろうろしています。
この駅舎、当時のまま。
思い出があるのでしょう。
多分、この駅から列車で家族と旅立ったのでしょう。
二人はしばらく駅の周りにいて帰っていきました。
この街まで来ると、もともとドイツなんだと感じます。
酔っぱらった浮浪者も、ポーランド語が分からないというとドイツ語で「3オイロくれ」とねだってきます。
そういえば、ユーロはドイツ語でオイロって言うんですね。
泊まったホテルもドイツからの車が3台に1台はあります。
古い建物はドイツによくみられる白壁に木組みの家。
屋根の勾配やバルコニーの雰囲気も少し違います。
ベルリンはドイツの東部に偏って、ワルシャワはポーランドの東部に?
2つの国の首都の位置、東にズレていませんか?
ジェロナグラ、どうしてワルシャワまで6時間もかかるのに、ベルリンに2時間でいけるのでしょう。車なら1時間でベルリンに行けるみたいです。
これが、戦後(話は戦中から連合国内で)決まった2つの国境線の仕業です。
ソ連がポーランドの東側を奪い、その分、ポーランドがドイツ領に侵入。
ドイツから奪った領土をポーランドでは「回復領」と言っていたそうですが、1000年前にこの地域にポーランドの主権が及んだことがあったかも・・・という話のようです。
日本でいえば,平安末期か鎌倉時代。
オホーツク海沿岸には沿海州の住民との関連をうかがわせる遺跡がたくさん残っています。
戦時中に、連合国の話し合いの中で、旭川以北をソ連が占領するというプランもあったようです。
そうなったら、ソ連は1000年前の沿海州の住民の権利を回復した「回復領」とでも呼ぶつもりだったのかもしれません。
なんとも、恐ろしい話です。
でも、ここでは現実です。
カティンの森 札幌にて
7月2日 ポ-ランドから千葉を経由しようやく、札幌に帰ってきました。
7月3日 なんと偶然にも、札幌エルプラザ4F大研修室にて北海道ポーランド文化協会主催の
「カティンの森」のビデオ鑑賞会が開かれました。
アンジェイ・ワイダ監督 2007年作品です。
彼の代表作にはこの他「地下水道」「灰とダイヤモンド」「約束の土地」「コルチャック先生」「パン・タデウシュ物語」「ワレサ 連帯の男」「残像」などがあります。
原作邦訳はアンジェイ・ムラルチク「カティン」の森」工藤幸雄」・久山宏一訳
集英社文庫、2009です。
- 作者: アンジェイムラルチク,Andrzej Mularczyk,工藤幸雄,久山宏一
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数日後、紀伊国屋に本を買いに行きました。
店内のコンピューター検索には3冊、カティンの森関連の本がありましたが、目的の本は取り寄せ。
ひとまず、在庫のある2冊を見に行きました。
2階のドイツ史、中欧史の下段に同じくらいの厚さで値段も同じく3000円弱の似たような表題の本が並んでいます。中を見ると、差し込まれている写真も同じようです。
でも、一冊を取って、中を見た時なにか違和感を感じました。2010年代の本です。そんなに古い出版の本ではありません。
中を読み進めて違和感の原因がわかりました。なんとこの本は「ナチス・ドイツ」犯行説に基づく本です。著者は日本人です。
私は、両方の説を検証してはいません。ただ、ソ連崩壊前の1989年以前には世界中で「ナチス・ドイツ」犯行説の本も出版されていましたが、その後事実の解明が進み、現在の国際認識は「ソ連」の犯行であると結論づけられたのだと理解していました。
その流れの中で、あえて最近の日本人の書いた著書で「ナチス・ドイツ」犯行説の本が出版されているとは。
もっと、驚いたのは、紀伊国屋のような日本を代表すると思っていた書店が、2冊しか取り揃えていない「カティンの森」関連の本の一冊が「ナチス・ドイツ」犯行説、もう一冊が「ソ連」犯行説。
2冊の本を並べるとは。
両論併記のつもりでしょうか?だとしたら、あまりにも無責任で節操がありません。
書店の本の取り揃えは、書店の思想、信条が反映されると思いますが、この2冊の本は何を示しているのでしょうか?
10冊あるうちの1冊このような本が混じることはまだ理解できます。
しかし、2冊を並べて陳列することは、歴史に対する冒とくなのではないでしょうか?
中に差し込まれた写真に写されている犠牲者の悲しみ、映画に描かれた残された家族の悲しみをどのように感じているのでしょうか?
ポーランドで「カティンの森」の事件の重さを知り、札幌であらためて映画を見て真実を明らかにすることさえ拒まれた人々の苦しみを思い、さらに、紀伊国屋で真実は訴え続けなければならないと考えさせられました。
- 作者: ヴィクトル・ザスラフスキー,根岸隆夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2010/07/10
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カティンの森の夜と霧―第二次大戦をめぐる奇怪な大虐殺事件の真相記録 (1963年)
- 作者: J.K.ザヴォドニー,中野五郎
- 出版社/メーカー: 読売新聞社
- 発売日: 1963
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ジェロナグラの美味しいレストラン おすすめはアヒルの照り焼き
街を散歩していたら、受講生とバッタリ会いました。「なにをしているのですか」と聞かれたので「美味しそうなレストランを探してます」と答えたら、さっそく2軒,店を紹介してくれました。
1軒はバッカス。残念ながらそこは、休みでした。
もう一軒がゴールデンダック。
壁に大きく字が書かれています。それがポーランド語でGOLDEN DUCKの意味。
店に入ると、明るい年配の女主人が出てきて「うちはこれが一番おすすめ」みたいなことを言っています。
そのメニューが「あひるの照り焼き」ポーランドの伝統料理のようです。クラクフのレストランにもジェロナグラのバッカスにもあります。
でも、この店では店の名前にまでしています。よほど自信があるのでしょう。
そこで注文しました。同じポーランド郷土料理の定番スープ、ジュレックと。
きてみて、びっくり。アヒルがお皿からはみ出しそう。
上には焼きリンゴが、ポテトもついています。ジュレックももともとボリュームのある料理です。この2皿で満腹。味ももちろん看板料理の名に恥じませんでした。
その後
2回訪問しました。もちろん注文は「アヒルの照り焼き」
でも、女主人が顔を出しません。かわりに朴訥そうな中年のウエイトレスが対応してくれます。
問題は、アヒルのおおきさ。一回目はほんとに大きかった、2回目はそんなでもない。シーズンで成長に差があるのかとも思いました。
3回目、あきらかに小さい。
切り盛りしていた女主人が店に顔を出さなくなり、世代交代してしまったのかもしれません。なんとなく、店にも活気がないような。
地元の人も来ていて、別のテーブルで食べているのですが。
そもそも、この店はもとから、トリップアドバイザーにも載っていません。
旅行者がくる雰囲気でもありません。地元客を対象にしている感じです。
店の雰囲気はとても落ち着いてあかるくインテリアも好きだったのですが。
もし、どなたか行ってみてビックリするほどアヒルが大きくなっていたら嬉しいのですが。