第二世界大戦のあと、ソ連がしたこと。
二つの国境線
Ⅰ カーゾン線
これは第一次世界大戦に定められたポーランドとソ連の国境です。
しかし、この線は「第3次ポーランド分割」1795年・時のプロイセンとロシアの国境。ポーランドが侵略された結果のロシアとの国境です。
当然ポーランドはこのカーゾン線は3回にわたるプロイセンとロシアよって侵略された結果の強国同士の国境であると主張しました。
そして本来はもっと東側が本来の国境であるとして、第一次大戦後ロシアと戦い勝利し1921年200㌔東まで領土を回復しそこにロシア国境を設定しました。
つまり、ポーランドは1921年以降は第2次大戦までは今より200㌔東に広がる国であったのです。
ある受講生のおじいさんは、その地に住んでいたそうです。
しかし戦後、戦勝国ソ連はこのカーゾン線まで領土を拡大しソ連の地と主張。
その結果、彼のおじいさんはその地を追われ、逆にドイツから奪ったこのジェロナグラに住み着いたそうです。
この地域に住む住民のほとんどは彼のおじいさんと同様に、ソ連に奪われたポーランドの東部地域に住んでいた人です。これはソ連とポーランドの傀儡政権が行ったということです。
簡単に民族を強制移住させる。ソ連の政策としてよく使う手です。
ハルピンにいたとき、隣の席に座った韓国人らしき風貌の学生が後ろのロシア人の女子学生とロシア語で話していました。あまりロシア語がうまいので褒めたら「私はロシア人です」「え、ロシア人なの?」と聞いたら「満州族です」
でも故郷はモンゴルのはるか西の地域でした。
アジアの東にいたはずの満州族、清を作った満州族は、はるか西の地域にソ連政府によって移住させられていたのです。
ポーランドでも、東にいた人間が西に強制移住させられています。
その地のひとつが、ここジェロナグラです。
ドイツ人を追い払った場所に国の反対側にいた人間をはめこむ。
そんなふうにして、今があるのです。
Ⅱ オーデル・ナイセ線
ジェロナグラのあるルブシュ県は第2次大戦がおわるまで、ドイツ領でした。
ジェロナグラから少し西にいくと、どんどんドイツらしい町並みになります。なんとなく、屋根の勾配が急、ドイツ風の木組みの壁が。ジャガンやジャリ、イウォバもプロイセン公国の領主の街です。
イウォバの駅でおばあさんと孫の二人連れに出会いました。
駅に行ったのですが、駅には駅員が一人もいない。
駅舎に鍵がかかっています。
そこに、車が。
ふたりが降りてきました。
そこで地元の人だと思い話しかけたら、ドイツ人とのこと。ザクセン州のローバからきたとのこと。
おばあさんが10歳まで、この街に住んでいて・・・。
地図をボンネットに広げ私と彼が話している間、おばあさんはひとりで駅舎の周りをうろうろしています。
この駅舎、当時のまま。
思い出があるのでしょう。
多分、この駅から列車で家族と旅立ったのでしょう。
二人はしばらく駅の周りにいて帰っていきました。
この街まで来ると、もともとドイツなんだと感じます。
酔っぱらった浮浪者も、ポーランド語が分からないというとドイツ語で「3オイロくれ」とねだってきます。
そういえば、ユーロはドイツ語でオイロって言うんですね。
泊まったホテルもドイツからの車が3台に1台はあります。
古い建物はドイツによくみられる白壁に木組みの家。
屋根の勾配やバルコニーの雰囲気も少し違います。
ベルリンはドイツの東部に偏って、ワルシャワはポーランドの東部に?
2つの国の首都の位置、東にズレていませんか?
ジェロナグラ、どうしてワルシャワまで6時間もかかるのに、ベルリンに2時間でいけるのでしょう。車なら1時間でベルリンに行けるみたいです。
これが、戦後(話は戦中から連合国内で)決まった2つの国境線の仕業です。
ソ連がポーランドの東側を奪い、その分、ポーランドがドイツ領に侵入。
ドイツから奪った領土をポーランドでは「回復領」と言っていたそうですが、1000年前にこの地域にポーランドの主権が及んだことがあったかも・・・という話のようです。
日本でいえば,平安末期か鎌倉時代。
オホーツク海沿岸には沿海州の住民との関連をうかがわせる遺跡がたくさん残っています。
戦時中に、連合国の話し合いの中で、旭川以北をソ連が占領するというプランもあったようです。
そうなったら、ソ連は1000年前の沿海州の住民の権利を回復した「回復領」とでも呼ぶつもりだったのかもしれません。
なんとも、恐ろしい話です。
でも、ここでは現実です。